「魍魎の匣」
そういえば、「魍魎の匣」を観てきたんだった。鑑賞前の期待値でいえば、前作の「姑獲鳥の夏」の方が圧倒的に高かったのですが、今回の「魍魎の匣」だって、全然期待していないわけではありませんでした。実相寺監督の妖怪小説へのアプローチは空振りに終わったけれど、監督が変わればまた話も違ってくるし、原作の完全無欠な映像化など、2時間程度の尺では不可能に決まっているのだから、割り切って観れる作品になっていれば、それでよいと個人的には考えています。
で、実際に完成した作品を観ての感想ですが、原作の大幅な脚色とか、前作からの登場人物の性格の変化とか、そういうのはもはやどうでもいいレベルの話で、前半~中盤の特定の登場人物に焦点をあわせて物語が進展し、最終的に京極堂を憑物落しに引きずり出すに至るまでの過程は、テンポもよく、飽きずに観ることが出来ていたのが、箱館に登場人物たちが乗り込む場面から、物語に対する興味がすっかり冷めてしまったのが、残念といえば残念です。言い換えれば、箱館に入ってからの展開が、冗長で、ものすごく面白くなかったです。
箱館のサイズがもう一回りでも小さければ、中禅寺たちが延々と階段を昇っていく場面を観なくてもよかったでしょうし、その分の時間を他の重要なシーンにまわすことが出来たのでしょう。長いといえば、木場が観ている白黒映画も無駄に長かったですが・・・とにかく、なぜこの場面にこれだけの時間をかけているのか、時々わけがわからなくなることがある映画でした。劇中で、久保が関口に対して、「あんたの小説は、前半はまともだが、後半になるにつれ支離滅裂になる」みたいなニュアンスの台詞を放ちますが、その台詞はそのまんまこの映画「魍魎の匣」に対してもぶつけることができるような気がします。
でもまあ、このキャストで、このシリーズはまだもうちょっと観てみたい、というような気持ちもあるにはありまして・・・いっそのこと、「ミッション・インポッシブル」シリーズのように、毎回監督を変えて撮ってみたら、一作ごとに作風が変化して面白いのかもしれないと思います。
それにしても、最後の最後でまたやってしまいましたね(笑)。「姑獲鳥の夏」の京極堂ENDに匹敵する悪夢でした。「魍魎の匣」でのあのシーンって、作品を通してもっとも重要な要素であるような気がするのですが・・・。
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