記念館の閉館時間である午後5時を少し過ぎて、《日下三蔵氏の話を聞く集い》が開催されました。直前に配布された、日下氏のプロフィールは下記の通り。
【1968年、神奈川県生まれ。専修大学卒業後、出版社勤務等を経て、現在フリーの編集者、アンソロジストとして活躍中。・・・・・・(中略)特に近年の「昭和ミステリ・SFの名作復刻活動」の仕掛け人の一人とされ、山田風太郎作品の復刊でも中心的な役割を果たしてこられました。
(中略)風太郎の古い友人である原田裕氏の「出版芸術社」に在籍されたこともあり、当時から風太郎氏本人からの信頼が厚かったとのこと。今や風太郎と風太郎作品の研究においては、わが国の第一人者であるとのもっぱらの評判です。】
年が自分とさほど違わない、ということに驚きながらも、軽く親近感を覚えずにはいられません。同世代の山田風太郎評が生で聞けるというのは、とても貴重な体験ともいえます。
編集者という仕事を生業としている知人がいないため、イメージがどうしても貧困になってしまうのは仕方がないことなのでしょうが、館長さんに紹介された日下氏は、どこか釣り人か、登山家を思わせるような風貌をしていました。――まるで、ぶらりと、通りすがりに山田風太郎記念館に立ち寄ったかのような風情です。
風太郎作品との出会いから、話が始まりました。高校生の時に、「黒衣の聖母」を手にして読んだところ、めっぽう面白かったとのことで、それから風太郎について調べ始め、推理物⇒忍法帖という流れで、風太郎作品を読み漁っていたそうです(一ヶ月で40冊というから、驚きです)。
大学卒業後に、前述の原田氏と知り合い、「出版芸術社」に入社。当時他社から出版されていた「虚像淫楽」が、風太郎の代表作を網羅していたにも関わらず、物足りなさを拭いえず、「全集を出してみたらどうか」という案を原田編集長にぶつけたところ、原田氏は即先生に電話をされ、日下氏は桜ヶ丘の風太郎宅へ向かうことになりました。
これが、この後、風太郎作品が数多く復刊される、ひとつのきっかけとなります。
ところが、当時、風太郎先生ご本人は、自作の推理物は出来がよくないと思っていたらしく、「自分は時代小説家だから」と、推理物の復刊には気乗りがしなかったようです。それを、日下氏は、「とんでもない、先生の推理小説は素晴らしい作品ばかりです!」と説明し、いくつか出版の許可をいただくことになりました。
あとは、どれだけ先生から出版の許可を引き出せるか――
日下氏の信条は、名作と呼ばれる作品以外のものが、2~3年で書店から消える現状を憂い、少しでも手に入る作品が増えるよう、各出版社に働きかけることであり、風太郎作品については、それが極端に使命化されてしまったようなもので・・・・・・わかりやすく言うなら、このうえもない推理小説オタクであり、風太郎マニアなのです。
こういった日下氏の精力的な活動のおかげで、光文社からは「山田風太郎ミステリ全集(全十巻)」が出版されることになりましたが、このときばかりは風太郎先生も、全集ということで、収録作品のダメ出しがしづらかったらしいです。
そして、この全集の第5巻が刊行されたとき、風太郎先生がお亡くなりになるのですが、この後の7~9巻には、ダメ出しされていた作品をごっそり入れたらしく、先生が生きておられたら、どんな渋い顔をされたか、と確信犯的に言うところを見ると、腹黒い一面もあるようです(笑)。
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