忍法帖

「柳生忍法帖」

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 山田風太郎ベストコレクション「柳生忍法帖」上・下巻を購入。

 貴志祐介先生による帯の推薦文には激しく同意。

 今回は、上巻末に“連載前の内外タイムス《著者インタビュー》”、下巻末に“《対談》「忍法帖」十二年”が収録されており、どちらも新規の資料としてとても興味深く、貴重なものとなっています(ベストセレクションの刊行はもう残りわずかのはずですが、以後もこういった資料が収録されるとファンとしては購入する意欲が増しますね)。

 特に、上巻末の“連載前の内外タイムス《著者インタビュー》”での、

 【池波(正太郎)の“夜の戦士”が忍者を扱っているから、忍者を登場させないでくれっていう注文がイタかったな】

 という風太郎先生の述懐には度肝を抜かれる想いがします。山田風太郎に忍者を書くなって、どういう了見だw 

 ホントかどうかわかりませんが、なんか惚けた感じでちょっと笑っちゃいました。

 でも、これがきっかけで「柳生忍法帖」が書かれたって考えると、この注文を出した編集者(?)はエライ。

 「柳生忍法帖」も、初読から20年以上経っていますが、当時に受けた衝撃はまだまだ強く心に残っていて、今後もこの作品以上に思いいれのある小説はなかなか出てきそうにありません(最近だと、「ミレニアム」は結構気に入った部類に入りました)。

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「伊賀忍法帖」

 山田風太郎ベストコレクションにて「伊賀忍法帖」再読中。

 私と風太郎作品との記念すべきファーストコンタクト作品であり、小学校5~6年くらいの頃、角川で映画化されたのをきっかけに読み始めたのを覚えています。読むのは実に30年振りくらいでしょうか。

 いま半分くらいまで読み進めていますが、当時は最後まで読むのにもずいぶん時間がかかったものです。それだけに印象に残っているシーンが随所にあるわけですが、再読してみると記憶との間にわずかな齟齬もなく、それはひとえに山田風太郎の確かな筆力――読者に映像を喚起させる流暢な文章力によるものでありましょう。

 山田風太郎は、小学生にも読ませる作家なのです!

 映画も、わざわざ映画館まで観に行ったっけなあ。真田広之は原作の笛吹城太郎のイメージにぴったりでした。成田三樹夫の果心居士も最高(根来忍法僧たちとのアクションシーンは小学生ながらに残念な出来でしたが)。

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「忍びの卍」

 「忍びの卍」再読。

 他の、複数VS複数の忍法帖とは趣を異にし、むしろ短編の構想を長編に仕立て上げたような本作ですが、これがまた面白く、普段なら泡のように消えていく忍法使い達の飽くなき探究心が、時にはユーモラスに時には残酷に、風太郎の冴え渡る筆によって描かれ、大陰謀の車輪を回していくのです。

 【山田風太郎ベストコレクション】の本作の帯には、せがわまさき先生の推薦文として、

 ”読むたびに思う。忍法帖って「絵」だよなぁ・・・と。”

 と書かれており、私自身も常々そう感じることが多いのですが、本作の中でもっとも「絵」としての完成度が高いのは、やはり、ラストの雪が霏々として降りしきる庭のシーンでしょう。

 登場人物が少ない割りに感情移入がしやすい人物がいないのもこの作品の特徴のひとつといえます。それは、「大義、親を滅す」という任務に囚われた人々の悲愴感から由来するものでしょうか。

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「忍法剣士伝」

__2  そういえば、行ってから分かったことなのですが、鹿島神宮の鎮座する鹿島は、剣聖・塚原ト伝の生誕地だそうで――

4800_20080701174321  塚原ト伝をNHK大河ドラマ化にしたい! ということで精力的なキャンペーン(署名運動)を実施しておられました(地元民ではないのでそのままにしてきちゃったけど、署名してくればよかったかな。と、少々後悔の念にかられていたら、ネットでも署名運動に参加できるようです)。

 山田風太郎的にアプローチすると、「忍法剣士伝」ということになります。

 【塚原ト伝。

 このとし八十六歳。

 常陸塚原の人。本名は高幹という。

 祖父高安が同国香取の大剣人飯篠長威斎に天真正伝神道流を学び父の新左衛門安重も長威斎の高弟松本備前守から一の太刀の秘伝を受けたが、ト伝はそれらすべてを総合し、おのれの血肉として新当流を編み出して、世人はこれをト伝流と呼んだ。

 ただしト伝というのは晩年入道してからの号で、それまでは塚原土佐守という名で世に知られた。

 一生のうち、戦場に出ること三十七度、真剣の試合をすること十九回、斬った敵の首は二百十二に達したが、その間六か所の矢傷以外、一か所の刀傷槍傷も受けたことがなかったという。】

 宮本武蔵との「鍋蓋試合」は史実ではないようですが、「無手勝流」と「家督相続」の話は、この大剣人らしい逸話と言えるでしょう。

 山田風太郎著「忍法剣士伝」では、飯綱七郎太の姦計によって、他の十一人の剣士・剣豪・剣鬼たち諸共に畜生道に堕とされかけますが、弟子の上泉伊勢守とともに果心居士の魔道を払拭する塚原ト伝の描写は、まさに剣聖と呼ぶに値するものです(といって、この文章を読まれて「忍法剣士伝」を初めて手に取られるという方は、せいぜい腰を抜かされぬようご注意を!)。

__3 最後に、鹿島神宮前の街路にはこんな石碑までありました。「藤枝梅安生誕地」の枯れ具合を視認した身としては、うらやましい限りの力の入れようです。全国各地の剣豪ゆかりの地にも巡ってみたくなっちゃいます。     

 

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婦女を童に代用せし事

 せがわ先生の新連載「山風短」がそろそろ読める時期になってきたので、「くの一紅騎兵」を再読してみました。

 ――まるで初めて読んだかのような読後感です。

 本編の筋立てよりも、南方熊楠が衆道の研究をしていたりとか、”背孕み”という言葉自体が実際にあるということに興味を覚えました。

 正直、いまなぜこの話を? と思うようなチョイスだと思いましたが(せめてあと一年始まるのが早ければ・・・)、”愛”の前立てで大人気のあの武将と、配下の「叛旗兵」ファミリーが、せがわ先生によってどのようなビジュアルになるのか、とても楽しみではあります。

 比較的短い原作なので、ページ数によりますが、2~3回で一話完結という感じでしょうか。

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伊勢波濤篇

 「おうっ。・・・・・・これは、絶景!」

 十兵衛のボキャブラリイが単純であるのと同様に、三池典太のボキャブラリイも単純である。

 昼前には青岩渡寺に着くべく、夜半に自宅を出発したものの、高速道を降りてから適当な休憩場所が見つからないまま、熊野街道を走ることおよそ2時間、開いているのは釣具店ばかりというこの状況に(山中の釣具屋が0時を回っても営業していることに、まず驚きましたが)、さすがに疲労と眠気を感じ、途中の道の駅で仮眠をとることになりました。

 ――午前3時くらいに仮眠を取り始めて、それでも2時間寝ただけで目が覚める。嫁も起きたので、とりあえず先を急いで出発することに。少しばかり車を走らせると、海が見えてきました。暗い山中をずっと走ってきたので、海面に照り返す朝陽がまぶしく、とても清々しい気分になります。路肩に車を止めて、ふと思いつくことがひとつ。

 「ここって、獅子岩の近くじゃないかなあ」

 南紀のガイドブックで知ってはいても、そもそも今回の目的地には組み入れていなかったので、正確に場所を把握していたわけではないのですが、右手の岩場が気になって、ちょっと先に進んでみるか、ということになりました。

 岩場の先に進むと、これがドンピシャで、ちょうど朝陽とのコントラストが目に染みて、思わず冒頭のような感想を抱くことになりました(・・・・・・本当の絶景は、これから目の当たりにすることになるのですが)。

_01 ←携帯画像なので画質はあまりよくありませんが、タイミング的に良い絵が撮れたと思います。

 さて、この日に観たもうひとつの絶景はといえば。

 【「あのおじちゃんたちも気がヘンになったんじゃない?」

 「あんなもの、見るんじゃありません!」

 と、おひろは叱った。そして、反対の海のほうを見て、

 「それより、ごらん、あのおもしろい岩を――まるで橋の杭がならんでるようでしょ?」

 と、指さした。

 いかにも海の中に、高いもので十余丈、低いものでも三四丈の巨岩のむれが、或いは筍のごとく、或いは剣のごとく、或いは魚のごとく、或いは獣のごとく立ち、わだかまり、連列している。名高い橋杭岩の奇観だ。】

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 ←南紀を回る前は、「なんだか、なんとか岩ってのが多いな」と思うだけで、ガイドの写真を観ても、とくに興味をそそられるものがなかったのですが、実物を目の前にしたら、これも単純な冒頭の台詞を吐く以外には、為す術がみつからないのでした。

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熊野山岳篇

 山田風太郎著「魔界転生」での、柳生十兵衛VS転生衆の戦闘の軌跡を巡る旅の締めくくりとして、再度、和歌山へ行ってきました。

 今回は、青岸渡寺・三段壁・道成寺の三箇所を旅の主目的地と定めていたので、自然と紀伊半島を一周するコースとなります。なにしろ初めての道のりなので、中間地点をどこにするべきか、割合頭を悩ませたのですが、最終的に本州最南端の串本を中継地とすることに決め、本拠の静岡を出発することにしました。

 この串本という土地、「魔界転生」では戦いの舞台とはなっていませんが、十兵衛一行が宿泊する場所として登場していることを知ったのは、戻ってきてからです。古座でひろった狂女のお品をもてあましつつ、巡礼姿に身を変えた彼らが泊まる場所こそが、この串本なのでした。――まったく頭に入っていなかっただけに、なんという偶然。

 【その夜は、串本に泊まる。この熊野路には、むろん東海道のようにととのった宿場はないが、それでも村々には西国巡礼を泊める家がある。

 潮の香のするそのわびしい宿に、弥太郎といっしょに寝た十兵衛は、深夜ふうっと眼を見ひらいた。】

 幸いにして、私たちが泊まったところは、眺望もよく、なかなか行き届いたホテルでしたが、わびしいという意味では、夜飲みに行く場所を探すのに手こずる程度の不便で済みました(笑)。

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故山の剣侠(忍法帖の世界⑦)~柳生

_04  【柳生谷に入ると、ふいに山国を歩いているような感じがする。五月の半ばすぎ――というと、いまの暦で六月中旬になるが、あちらこちらで鶯が鳴いている。・・・・・・】

 故意か偶然か、「魔界転生」の導入部での、柳生谷を彩る季節は、まさに、いまと同じ季節ではありませんか! いやー、読み返してびっくりしました(笑)。

 さて、柳生への旅も今回で4度目となりました。猫額大の狭い土地と表現されるけれど、見どころはそれなりに多く、2時間程度ではその全てを回りきれるものではありません。とくに今回は日帰りの強行軍なので、ポイントを芳徳禅寺に絞って行くことに決めていました。芳徳寺は、初めて柳生に来た折に寄ったきりですから、かれこれ15年ぶりくらいになります。

Photo  十兵衛食堂近くの駐車場に車を止める。柳生の家紋である【二蓋笠】を観るだけで興奮してくる私は、変人でしょうか(いや、きっとわかってくれる人もいるはず)。それにしても、駐車場は無人で、料金の500円は管理小屋の机の上に置かれたビールジョッキに入れといてくれ、という用心のなさ。

 到着時間が早かったため、十兵衛食堂もまだ閉まっていましたが、柳生というところは、何時きても観光地っぽくないなあ、というのが率直な印象です。まあ、そこがいいんだけれど、もうちょっと、欲を出してくれてもいいような気もします。柳生家の家紋入りのグッズなんかが売っていればいいのに、と思う今日この頃。

_01_2  芳徳寺への道を歩いていると、ふとこんな看板が目に付きました。

 ――あれ、前来た時って、こんなのあったっけなあ。嫁さんも憶えていないようなので、見落としていたわけではないようですが、とりあえず、【柳生十兵衛生誕地】ってのは、只事ではない感じです。芳徳寺へも抜けれるようなので、とりあえず進んでみることに。

_02 手前のもみじ橋っぽい橋を渡って、さらに数十メートル行くと・・・・・・。

_03 ←「えッ!?」っていう。

 由来を書いた立て札らしきものもなく、真相は謎のままに。

_01_3  不意打ち的に【がっかりイリュージョン】を見せ付けられた気持ちになるも、気を取り直して、芳徳寺への道を登っていきます。

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_05  けっこうな距離の坂道を登ることに・・・・・・甘く見てた。

 それでも、梢を通る風は熱をおびる肌に心地よく、最初の「魔界転生」本文からの引用よろしく、鶯のさえずりが時折聞こえてきて、心を和ませてくれるのです。

_01_4  やがて、芳徳寺の敷地へと足を踏み入れる事ができました。

 

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薬師寺天膳への最後通牒

 忍法帖に、自分の住んでいる町の名前が出てくると、このうえなく嬉しい感じがするものですが、これが実際の物語の舞台ともなると、さらに誇らしげな気持ちにさえなります。

 徳川家康が大御所政治を行った駿府は、忍法帖ではたびたび出てくる場所で、シリーズの中でも、かなりメジャーな地名、と言っても差しつかえないと考えるのですが、駿府に限らず、静岡県は、東海道における宿場のおよそ五分の二を占めているせいか、忍法帖シリーズの作中に登場する頻度が、割合と多いような気がします。

 さて、現在の私の住まいがある町も、忍法帖の舞台となったことが、記憶している限りでは一度はあるのですが、その作品というのが、忍法帖シリーズの記念すべき第一作目「甲賀忍法帖」で、あの薬師寺天膳が死んだ場所となりました。(´・ω・)

 【掛川の宿から三里二十町で金谷、一里をへだてて島田、そのあいだの大井川は、同時に遠江と駿河をわかつ。島田から二里八町で藤枝の宿。

 これは、山間ながら、半里以上もある長い宿場だ。】

 街道からすこし北へ入った小高い場所に荒寺があり、甲賀のくの一・陽炎はここで天膳の”伊賀責め”に遭うのです。

 【「ひ、ひと思いに殺しゃ!」

 「おお、殺してやる。殺すにはおしいが、望みどおり、殺してやるわ。じゃが、ひと思いには殺さぬ。朝までかかって、ユルユルとな。――あすは、生かしておけぬ。あすは、駿府入りじゃ。駿府まで、この藤枝からはたった五里半、たとえその間に宇津谷峠や安倍川があろうと、ゆっくりあるいても夕刻までにはつこう。伊賀組晴れの駿府入りじゃ。おまえの名は、それまでに人別帖から消されねばならぬ」】

 十年以上前の初読時には、「こんな重大な局面が我が町で展開されようとは!!」と快哉を叫んだものですが、今となっては「バジリスク」の薬師寺天膳のイメージがあまりにも強烈であったため、「あの、エロいうっかり屋さんが死んだ土地」、と認知されてしまっていることでしょう・・・・・・。

 【――そしていま、藤枝の廃寺の闇のなかに、甲賀弦之介は、生ける薬師寺天膳と、じっと相対したのだ。】

 余談ですが、島田荘司氏の「奇想、天を動かす」作中にも、藤枝が舞台となる場面があり、”海に面している”という描写があったことに萎えた記憶があります。藤枝市は海には接していないのです。

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生死一眼(忍法帖の世界⑥)~和歌山城

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 【ふしぎな空だ。黒い乱雲が渦まきながれているのに、ときどき金色の光がさす。そのたびに大空に、三層の大天守閣が墨色に浮かびあがり、また金色にきらめいた。

 和歌山の中央にある虎伏山にそびえる和歌山城であった。】

 宿泊したホテルが和歌山城のすぐそばにあり、部屋の窓から、上に載せたような高い位置からの写真を撮ることができました。城めぐりをする場合、近くに宿をとっていない限りは、たいてい天守閣は下から見上げたような格好の写真しか撮れないので、じゃらんnetでの宿泊先検索は非常に役に立ったといえます。

Photo  ちなみに、今回泊まったのはこちら(←)。朝食バイキング付きで、2人で13,000円ほどでした。

Photo_2  ライトアップされた和歌山城もキレイ(写真はぼけてしまいましたが)。部屋からのショットも狙っていたのですが、ご飯を食べて戻ったら、電気消えてるし。(´・ω・)

 ・・・どうやらライトアップはPM10:00までだったようで。

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Photo_4 【屋根は三層であるが、徳川御三家の威を具現して、よそにある五層の天守閣などよりはるかな巨大感を持っている。これがあまりに雄大なので、幕府から嫌疑をかけられたとき、頼宣は大笑して家老の安藤直次に、「・・・・・・余に異図あらば、進んで大坂城に拠るべし。なんぞ区々たる和歌山城を保守せんや」と、いいぬけさせたという。】

 柳生十兵衛が、ふところ手をしながら振り仰いだこの時代の天守は、弘化3年(1846)の落雷で焼失してしまったようです。4年後の嘉永3年に再建されたものも、昭和20年の戦火で失せ、現在のものは昭和33年に復元されたものだとか。

Photo_6  虎の伏した形に見える、というので虎伏山ということらしい。

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